今月のことば (2016年6月)
子曰わく、賢を見ては齊しからんことを思い、
不賢を見ては内に自ら省みるなり。 (里仁第四)
子曰、見賢思齊焉、見不賢而内自省也。
(里仁第四・仮名論語四四頁)
 
〔注釈〕自分より優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、つまらない人を見たら、自分はどうかと内省する。

 熊本地方で余震が続いている。二十一年前の揺れの恐怖が甦る。早く地震が治まってほしいと願うばかりである。
 優れた人物を見ると、自分もそのようになりたいと思い、そうなろうと努力してきたことが、人類を進歩させ、人間を成長させてきた。これは何も聖人賢人に対してだけとは限らない。最初は、子どもに無償の愛を注ぐ母親に対してであろう。あぁだいすき、早くママのようになりたい。次は力強く頼もしい父親に違いない。わぁすごい、きっとお父さんのようになるっ。幼稚園や小学校に上がり、友達からも大いに学ぶ。「子曰わく、三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を擇びて之に從い、其の善からざる者にして之を改む。」(述而第七・八八頁)とある通り、うっかなわないや、でも今度は負けないぞ、とお互いに切磋琢磨しながら大きくなる。また意地悪や嫌なことをされると、そんなことはするもんか、あんな奴にはなるもんか、と思うのも成長の証である。そして次には、読み聞かせや本を手に取り、偉人伝や英雄物語に登場する人物から学ぶ。時には、国際宇宙ステーション「きぼう」との交信を観ては宇宙飛行士になりたい、美味しいロールケーキを食べてはパティシエになりたいである。
 幾つになっても「見賢思斉」で在りたいものである。ただ忘れてはならないのは、偉人賢人であっても、たとい尊敬する師であっても、人間である。時に過ちを犯す。その過ちを決して見倣わないと思わなければ、人間は成長しない。「子曰わく仁に當りては、師にも讓らず。」(衛霊公第十五・二四三頁)もまた大事であると孔子は説く。たとい師に反対されようとも、自分が決意したのなら、それをやり遂げるのが仁であると。常に不賢を見ては内省である。「思斉内省」も忘れないように在りたいものである。
 わが胸に 燃ゆるねがひは 賢者かな 不賢を見ては われかへりみつ
  (見尾勝馬『和歌論語』より)

論語普及会副会長 目黒泰禪

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